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怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)③ [神様について]

関連記事:怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)①
    :怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)②

凄まじい内容が続いて驚かれた方もおいでになるかもしれませんが
道真様はとても真っ直ぐで優しい方なのです♪

例えば、道真様を左遷させた藤原時平の弟、
藤原忠平は道真様が左遷された後も、
道真様を思いやる手紙を送り続け、
醍醐天皇の後、朱雀天皇の時代に摂政、関白へと出世します。

942年に西京七条二坊に住む貧しい家の娘で
多治比文子の枕元に道真様の霊が現れ
「私が生きてた頃、よく右近馬場という所に遊びに行きました。
 そこに行けば私の胸の内に燃えさかる恨みの炎は安らぎます。
 右近馬場に祠を建て私を祀ってください」というお告げがあったとか。
文子は貧しく、祠を建てる事ができなかったので
自分の家の敷地内に祠を建てて祀る事にしました。

5年後、近江の国(滋賀県)の太郎丸に同様のお告げがあり、
947年祟り神として猛威を振るわれた道真様を鎮めるべく
太郎丸の父親が右近馬場にある朝日寺の住職に相談して
文子の家の庭にあった祠を右近馬場に移し、
道真様のお告げ通りに社を建ててようやく祀る事が叶います。

北野天満宮.jpg
画像は北野天満宮

この話を聞いた当時の右大臣、藤原師輔(藤原忠平の息子)は、
952年にその社を増築して現在の北野天満宮となるのです。
道真様は天満大自在天神とも呼ばれていて
こうして天神信仰が広まっていくのでした。

怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)①で綴った通り、
太宰府天満宮は道真様の御墓所なので
太宰府天満宮に参拝して手を合わせる事は、
道真様のお墓参りをしている事と同じです。

太宰府天満宮.jpg
画像は太宰府天満宮拝殿

生前の道真様の生き方から至誠の神として信仰されていますが、
お名前を見ても、生き方を見ても真っ直ぐな方なのです。
道真様の漢字は【】と【】ですが、
真(まこと)とは純粋混じり気がないという意味があり、
その名に恥じること無く、真っ直ぐに人としての道を歩まれた御仁なのです。

今では天神様として、学問の神様として、至誠の神、書道の神として
誰からも親しまれ、崇敬されている道真様。
知れば知る程に大好きな神様の1柱であり、
もう何年も前の話ですが信頼に足る霊能者の方を通じて
私の産土の神様を尋ねた事があります。
そして道真様から人生の助言を頂戴した事がありますが、
改めて見直してみてもスゴイとしか・・・。
頂いたお言葉の個人的な印象ですが、
頭脳明晰(学問の神と称される天才ですから当然)で
真っ直ぐで優しく、端的で鋭く本質を突きながら綴られる言葉の数々。
神棚には太宰府天満宮の神札が納まっている事は言うまでもありません!

話は変わって平昌オリンピックで
見事金メダルを獲得された羽生結弦選手。
国営ロシア通信では【日本の神】とまで賞賛され、
陰陽師をイメージしたSEIMEIを演じ世界最高得点を更新。

陰陽師は、685年に陰陽五行説をベースとして歴史に登場します。
この陰陽師、今で言う国家公務員で
お仕事は占術や呪術、祭祀を司っていました。
つまり、神祇官の一翼を担った存在が陰陽師です。

菅原道真様は845年~ 903年
安倍晴明は  921年~1005年なので直接の関わりはありません。
しかし、歴史は繰り返すと言うか、
安倍晴明も似たような境遇を経験するのです。

安倍晴明は花山天皇に仕えていたのですが
藤原兼家、道兼らが、外孫である一条天皇(7歳)を即位させる為に、
当時の天皇であった花山天皇(在位2年?19歳)を策略により退位させます。
(986年7月31日 寛和の変)

退位させられてしまった花山天皇と共に安倍晴明は一族を連れて、
京の都を離れるのですが、この時に安倍晴明一族が
菅原道真公をお祀りしたのが上野天満宮・・・別名、名古屋天神。

上野天満宮.jpg
画像は上野天満宮

安倍晴明が菅原道真公をお祀りした理由として
上野天満宮では、
「自らの境遇と照らして菅原道真公の心情を儚く思い、
 上野天満宮を建て、菅原道真公を手厚く奉りました。
 そしてその思いがかない、安倍一族は一部を
 当地に残して無事に京都に戻ることが出来たそうです。」
と、なっています。

ホントかな?って事で実際の史実を時系列で見ていくと・・・

 903年 菅原道真様薨去
 908年 藤原菅根 落雷により卒去
 921年 安倍晴明 誕生
 930年 清涼殿落雷事件
 947年 道真様の怨霊を鎮める為に北野天満宮創建
 949年 勅命により大阪天満宮(天満天神)創建
 968年 花山天皇 誕生
 978年 安倍晴明自宅に落雷(道真様死後75年)
 986年 寛和の変
 987年 道真様に北野天満宮天神の称が贈られる。
 992年 花山法皇 帰京?
 993年 道真公に正一位左大臣追贈。
       道真公に太政大臣追贈。
1005年 安倍晴明 死去
1008年 花山法皇 崩御

上野天満宮の創建は不明ですが986年以降992年未満でしょうか。

今回の内容で言える事は日本の神様が祟るのではなく、
先に祟られるような事をしている事が問題であるという事を
忘れてはいけません。
もちろん、道真様の祟りという証拠は何1つありませんからね!

怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう) 3部作 完

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怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)② [神様について]

関連記事:怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)①

事実無根の罪を着せられて、
太宰府へと左遷させられただけでなく、
子供達までもが罪に問われて流刑となり、
わびしい生活を余儀なくされた道真様は
59歳でこの世を後にします。

そして、その翌年より様々な怪奇現象が起きたのでした。
もちろん、証拠はなく、誰も証明出来ませんが・・・。

道真様の恩師である比叡山延暦寺第十三代座主、
法性坊尊意僧正の前に現れ
「無実の罪を晴らすべくこれより復讐を行うが、
 わしの恨みを祓わんと指名された際には、
 例え天皇からの命令であっても、
 私を阻止するような事はしないで欲しい。」
しかし、尊意は
「天皇から2度3度と繰り返し要請があれば、
 断る事はできない」と断ると
道真様は口に含んだザクロを戸に向けて吹きかけると
戸は炎に包まれました。
すかさず、尊意は印を結んで鎮火させますが、
その時には既に道真様の姿は消えていたとか。

この後、道真様は数十年に渡って
その名を轟かせていくのです。

906年、
道真様を陥れた中納言藤原定国が急死
醍醐天皇に「天下之世務以非為理」と上申した
最初のきっかけ作りを行った人です。

908年、
道真様の左遷を知った宇多天皇が醍醐天皇へ直訴に駆けつけた際、
行く手を阻んで面会させなかった藤原菅根が雷の直撃により即死

909年、
道真様を左遷に追いやった藤原時平死亡
当時有名な天台宗の僧、浄蔵に加持祈祷をさせるも、
時平の耳から出てきた道真様の化身が現れて
祈祷を中止し、その後、ほどなくして時平死亡。

913年、
時平派だった源光が狩りの最中に底なし沼に
馬ごと転落して行方不明。
道真様を陥れて左遷後に右大臣になった方で遺体は上がらず。

923年、
醍醐天皇の皇子で皇太子の保明親王が21歳の若さで急死
時平の甥にあたる方です。

925年、
保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王が5歳で死亡
母親は時平の娘、時平さんの孫にあたる方。

さすがに異常事態だと認識した醍醐天皇や藤原一族は
道真様を太宰府長官より右大臣に戻し、正二位を追贈。
左遷詔書(天皇から左遷命令を伝える公文書)も焼却。
祟りを畏れて役人の他に僧侶もその場に居たのですが、
焼却する火が周囲に燃え移り、役人、僧侶共々焼死。

国内では干魃や疫病が蔓延し、遂に歴史的事件へと。

北野天神縁起絵巻に描かれた、清涼殿落雷事件.jpg
画像は北野天神縁起絵巻の清涼殿落雷事件

930年6月、干ばつ・疫病対策会議の最中、
清涼殿(平安中期の天皇御殿)に落雷の直撃。

藤原清貫は清涼殿に落ちた雷の直撃を受けて即死
清貴は時平政権に参加して道真様の追放に加担した方。
平希世は顔に直撃し、美努忠包が髪を、紀蔭連が腹を、
安曇宗仁が膝を焼かれて死亡
この歴史的事件から雷神=道真様というイメージが定着します。
今までの出来事全てが道真様によるものであると信じられ
当時の人は恐れ慄きます。 (清涼殿落雷事件)

面白いエピソードとしては・・・
源 公忠が死んだ3日後に生き返ったというお話があります。
醍醐天皇はこの源 公忠を呼び、あの世(地獄)での話を尋ねると
「醍醐天皇はもうすぐここ(地獄)にやって来る・・・
 時平の讒言を聞き入れ、無実の賢人を左遷した事が1番重たい」と。
これを聞いた醍醐天皇は気が気じゃなかった事と察しますが、
天皇の位をわずか8歳の寛明親王に譲位し、
朱雀天皇が即位します。
そして、譲位1週間後に醍醐天皇は同年9月に衰弱して崩御

936年、
藤原時平の長男、藤原保忠は物の怪に取り憑かれ
全力で当時の高僧達に祈祷をさせるも狂死
時平の娘、藤原褒子死亡

943年、
時平の三男 藤原 敦忠死亡

当時、道真様を陥れに加担した関係者の方々は
こうして次々と亡くなられていったのでした。
もちろん、証拠は無いので証明のしようがありません。
でも、単なる偶然の出来事と簡単に片付ける事が出来ないような
ピンポイントで関係者が次々と消えていく事実・・・。

そして、道真様は他界された後も出世を続けられていくのでした。

生前の901年に公卿としての最高位である従二位から
993年に道真様に正一位左大臣、太政大臣追贈。
贈正二位を経て贈正一位まで進み、官職も右大臣から太政大臣へ。
因みに道真様を陥れた張本人である藤原時平は左大臣、正二位。

この後の歴史はというと・・・
金メダリストの羽生結弦選手でも有名なSEIMEI。
そうです、あの有名な陰陽師、安倍晴明が登場して
その後は学校で習った平将門へと歴史は進みます。
実は平将門の時代に道真様が再び登場していたとか・・・。

さて、このままだと道真様の印象があまりに・・・って事で
続きは怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)③へ続きます。
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怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)① [神様について]

よく【日本の神様は祟る】と言われますが、
はてさて、実際にはどうでしょう?って事で記事を綴ります。

【神】という漢字には【示】が含まれているわけですが
この【示】が使われている漢字を見ていくと
神様に関係する事が実に多いのです。
神、祀、祇、社、祈、祉、祠、祝、祖、祚、祕、祓、禍・・・etc
関連記事:神という漢字を読み解く!
    :雷は神様!

【祟る】の漢字は【出】と【示】とに分解でき
単純に【示】が【出る】という解釈で
本来、【神の顕現】を表した文字です。

歴史的な背景を見ていくと流行病、飢饉、天災等の災いが起きると
それは神の顕現であるとして認識し、畏れ鎮めて、祀り上げるのだとか。
実際の所はというと確認のしようがありません。
だって、証拠は無く誰も証明できないのだから!(笑)

しかし、有名なエピソードとして記事を綴りたいと思います。
日本三大怨霊が1人として畏れられ、私が大好きな神様の1柱のお話です。

【学問の神】【至誠の神】【書道の神】として
皆から崇敬され、親しまれている菅原道真様。
その名が表す通り、【真(マコト)の道】を歩まれた御仁です。
そして、学問の神と称される天賦の才は伊達ではありません!

『美しや 紅の色なる梅の花 阿呼が顔にもつけたくぞある』
この和歌、道真様が5歳の時に詠まれたのだとか・・・
(阿呼とは道真様の幼少の頃の名です。)

『月燿如晴雪  月の燿かがやくは晴れたる雪の如し
 梅花似照星  梅花は照れる星に似たり
 可憐金鏡転  憐ぶべし 金鏡転めぐり
 庭上玉房馨  庭上に玉房の馨かをれるを』
道真様が11歳の頃に詠まれた漢詩です。

道真様が26歳の時に官吏登用試験の方略試1発合格。
この方略試は道真様の年代で約220年の間に65人しか
合格者が居ないという最難関国家試験です。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用され、
898年の秋、宇多天皇(上皇)一行と手向山八幡宮へ参拝されます。
その時に神様へのお供え物を忘れた事に気づき、
一行は大慌てとなりましたが、道真様は一句詠まれます。

『このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに』
 
 「今度の旅は急いで発ちましたので、
  捧げるぬさを用意することも出来ませんでした。
  しかし、この手向山の美しい紅葉をぬさとして捧げますので、
  どうかお心のままにお受け取りください。」

百人一首でも有名な和歌の1つですが、
さぞかし、その場を和ませて、一行を安堵させた名歌だった事でしょう。

醍醐天皇時代になり899年道真様は55歳の若さで右大臣に昇進します。
右大臣というのは左大臣に次ぐ官職で、
天皇 → 左大臣 → 右大臣という官位順です。
当時は、藤原家の権力が凄まじい時代でしたが、
その藤原氏と天皇の2人しか道真様の上に居ないのです!
家柄という後ろ盾のない道真様にとって右大臣は
人としての最高位といっても過言ではないでしょう。

『臣は将相の貴種にあらず、宗室の清流にもあらず、
 儒林より出でし身の、昨日までの官位すら過分至極なるに、
 ましてや大臣の位など思ひもよらず。
 斯くしては人心必ず従容せず、鬼瞰(キカン)必ず睚眦(ガイサイ)を加へん。
 伏して願はくば、陛下高く聖鑑を廻らして、
 早く官を罷めしめ、以て衆庶の望みを失ひ給ふことなからんことを。』
                           菅家後草より

道真様は右大臣への欲は無く、右大臣になる前の官位でさえ分不相応として
右大臣を断り続けた為、遂には醍醐天皇が怒り出してしまいます。
「汝は朕を捨てんとするか」
こうして、道真様は右大臣となり左遷へと至るのでした。

2年後の道真様57歳の時、公卿としての最高位となる従二位の官位を
授けられるになりました。  本当にとてもスゴイ御仁なのです。

ただ、従二位の位を授かった20日後には・・・
儒家であった道真様は清廉潔白な政治を心掛けてきたが故に
私服を肥やしていた貴族達の反感も強く、
その類稀なる天賦の才と出世の早さも相まって
周囲からは妬みを買っていたのでした。
そして、901年、左大臣の”藤原時平達”が醍醐天皇に
「天下之世務以非為理」と奏上した虚偽によって貶められ
太宰府へと左遷させられただけでなく、
子供達まで罪に問われ流刑となります。(昌泰の変)

道真様が詠まれた有名な和歌として
『東風(こち)吹かば 思い起こせよ 梅の花 主無しとて 春を忘るな』

「主人(こと、私)がいなくなっても、春が来るたび忘れること無く、
 梅の木よ、芳しい花を咲かせておくれ。」

この和歌は左遷が決まった後に道真様が詠まれました。
そして、この歌を聞いた梅は道真様を追いかけてなんと大宰府に!
(飛梅伝説)

飛梅看板.jpg

飛梅.jpg
画像は太宰府天満宮の飛梅

因みに菅原道真様のご神紋は梅紋で
太宰府天満宮のご神木は樹齢1000年を超える白梅。
そして太宰府天満宮のお神酒は日本酒ではなく梅酒です。
今までの歌を見て分かる通り、
道真様は梅をこよなく愛しておられました。

左遷後の大宰府長官とは名ばかりで、
実際には雑草が生い茂り、雨漏りする官舎で、
衣食もままならないわびしい生活の中、
近くの方が道真様を元気つけようと
梅の枝に餅を差して窓から差し入れを行っていました。
これが有名な「梅ヶ餅」のエピソードです。

梅ケ餅.jpg
画像は梅ヶ餅


天拝山御神詠.jpg
画像は天拝山社に奉納された御神詠

『去年今夜侍清涼 (去年の今夜、清涼に侍す)
 秋思詩篇獨断腸 (秋思の詩篇、独り断腸)
 恩賜御衣今在此 (恩賜の御衣、今此処に在り)
 捧持毎日拜餘香 (捧持して毎日余香を拝す)』

「去年の今夜は清涼殿にて、断腸の想いで作った秋思の歌。
 その褒美として天皇より頂いた衣は今もここに在って
 毎日、捧げ持って香を炊いている」

道真様は太宰府政庁から見える天拝山へ幾度となく登山され、
天に対して無実を訴えられました。

太宰府政庁跡.jpg
太宰府政庁からの風景.jpg
画像は大宰府政庁跡

登山の前には紫藤の瀧で身を清め、
天拝山の頂上にある岩の上に7日もの間、
爪先立ちをしながら天に無罪を訴えられたのだとか。
この逸話は歌舞伎の演目にもなっています。
(菅原伝授手習鏡(すがわらでんじゅてならいかがみ))

紫藤の瀧看板.jpg
紫藤の瀧.jpg
画像は紫藤の瀧と看板

天拝山からの大宰府政庁跡.jpg
画像は天拝山からの大宰府政庁跡


道真様は845年8月1日(承和12年6月25日)に生まれ
903年3月26日(延喜3年2月25日)に薨御。
ご遺体を牛車に乗せて運んでいると、
牛が途中にあった「安楽寺」の前で伏して動かなくなります。
御神牛看板.jpg
御神牛.jpg
画像は御神牛

その場にいた菅原道真の弟子であった味酒安行は
道真様の御心によるものとして、その地に埋めて祠を建て祀ります。
これが福岡県太宰府市にある「太宰府天満宮」となります。
道真様御墓所看板.jpg
太宰府天満宮.jpg
画像は道真様の御墓所と看板

菅原道真様の生きた平安時代は遣唐使を派遣していた時代で、
道真様は最後の遣唐大使であり、
894年に遣唐使を停止した御仁でもあります。
その後、907年に唐は滅亡し遣唐使は正式に廃止となります。

さて、ここからが本番?ですが、少々長くなっている事もあり、
次の記事へと続く事にします。

関連記事:怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)②

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日本国の建国日 [神事]

本日2月11日は日本国の建国記念の日の祝日です。
皇紀にすると西暦2018年は皇紀2678年になります。
この国は2678年という長い歴史を持った
世界にただ一つの国家なのです♪

世界的に見て1つの王朝が継続して存在している国家は
世界で【日本】だけなのです!
日本国の正史である日本書紀には
紀元前660年1月1日(旧暦)に初代天皇である
神武天皇が即位されたと記録があります。

橿原神宮 外拝殿.jpg
画像は橿原神宮外拝殿

橿原神宮 内拝殿.jpg
画像は橿原神宮内拝殿
御祭神:神武天皇、比売多多良伊須気余理比売(皇后)

この紀元前660年1月1日(旧暦)の即位日を持って
明治5年太政官布告第342号により
【日本国の建国】と法的に制定しました。(紀元節)
そして明治6年(1873年の新暦開始)に伴って
旧暦の1月1日を新暦に換算した日付が2月11日なのです。
関連記事:神様をお迎えする本当の月は・・・

しかし、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)、
占領軍 (GHQ)の意向によって
この【日本国の建国の日】は廃止されてしまうのでした。
その後、復活の動きが高まり【建国記念の日】として、
1966年(昭和41年)に国民の祝日となり
1967年から適用され現在へと至っています。

氷川神社日の丸.jpg
画像は国旗を掲揚した氷川神社

2月11日の【建国記念の日】には、
神社で日の丸の旗が高々と掲げられる特別な日。

2月11日は日本の建国記念の日ですが
世界中のそれぞれの国でそれぞれの建国神話があり、
各国で建国記念日の祝日が制定されています。

ただ1945年(昭和20年)12月15日にGHQが政府に発した覚書、
神道指令
「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、
 支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」
そして、その後の日本国憲法20条(政教分離)制定によって
学校等で日本神話を教える事ができなくなりました。
その結果、無宗教を自覚する割合の多い国となり
TVや新聞で事件として報道されるような新興宗教が
宗教のイメージとして定着していく事に繋がっていきます。

そんな中にありながらも、
新年には神様への挨拶として
数多くの人が和装をして参拝に訪れる
国民行事(神事)となっているのです。

2016年の初詣参拝者数TOP10は・・・
明治神宮  (東京)  約317万人
成田山新勝寺(千葉)  約309万人
川崎大師  (神奈川) 約307万人
浅草寺   (東京)  約291万人
鶴岡八幡宮 (神奈川) 約250万人
住吉大社  (大阪)  約239万人
熱田神宮  (愛知)  約230万人
氷川神社  (埼玉)  約210万人
太宰府天満宮(福岡)  約200万人
生田神社  (兵庫)  約150万人  

祖父母のお墓参りをしてご先祖様に手を合わせたからといって
後ろ指を指されるような事はありませんよね?
同様に八百万に神々を祀る神社に参拝しても
変な目で見られる事もありません。

祭りは地域をあげて五穀豊穣を神々へ感謝する神事ですが
祭りに参加したからといって後ろ指を指される事もありません。

さて神道は一般的に思われているような宗教でしょうか?
戦前までは国家神道として日本神話は普通に教えられていましたが
当時の政府見解は、国家神道は宗教ではないとしています。
(神社非宗教論)
しかし、GHQは神話であり、『古事記』や『日本書紀』は
「史実ではない」「非科学的」と位置づけて教える事を禁じました。

確かに時の権力者達によって都合よく書き換えられた面があるので
古事記、日本書紀は完全な史実とは呼べませんが、
それでも、歴史的に価値のある日本国の歴史書に違いないのです。

中国の正史である宋史の中に王年代記(984年)がありますが、
そこにも神代の神々様を始め、人代の神武天皇が記されています。

神武天皇 彥瀲第四子號神武天皇。
     自築紫宮入居大和州橿原宮。即位元年甲寅。

一般的な神様の定義は、自然崇拝、精霊崇拝、先祖崇拝。
つまり、ご先祖様に手を合わせる事に繋がるのが
神社参拝でもあるわけです。
一般的に思われているような宗教ではないからこそ、
別の神様を祀っている神社に普通に参拝できるのです。
伊勢の神宮に参拝したからといって、
出雲大社への参拝が出来ないなんて事はありません♪

天皇陛下は、一般に日本総氏神である天照直系の子孫で
万世一系と言われています。
この国が、神の国と呼ばれ、
世界で最も長い歴史を持った国家の理由です。

そして、神社が日の丸の旗を建国記念の2月11日に
高々と掲揚する理由がここにあるのでした。
タグ:神社 神様
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立春朝絞り(銘酒開華) [神事]

立春朝搾り2本.jpg
画像は立春朝搾りの開華

さて、先日、登場した立春朝絞り!
1年で1番日本酒が売れる日で全国で約31万本の出荷。

本物志向?な私が選んだ銘柄は開華と名付けられた銘酒。
通常、日本酒はタンクと瓶詰で2度火入れを行いますが
立春朝絞りは無濾過生原酒!
関連記事:新しき年の始まり

衛生面から殺菌処理として火を通すのが通常ですが
殺菌するという事は発酵菌まで死んでしまいます。
しかし、立春朝絞りの開華は、殺菌処理を施していません。
お酒を造る過程の菌が生きたままの状態なのです!

本物の甘酒(酒粕で作らず米と米麹と水だけで作った甘酒)は
飲む点滴とまで評される程、体に良い健康的な飲み物ですが
これは発酵させる為の酵母菌が生きているからです。
生原酒(日本酒)と本物の甘酒の”基本的な違いは
アルコールと濾過の有無”になります。
非加熱(殺菌処理しない)で飲む事を前提にして
造られているのと衛生面に細心の注意をしながら
丁寧に造られている為、大吟醸よりも神経を使うのだとか。

さて、生酒(生きたお酒)の意味がわかった所で
今度は原酒の説明をば・・・。
アルコール度数の調整として
一般的な日本酒は加水しますが原酒は加水しません
無濾過生原酒とは、タンクの中に柄杓を入れて掬ったお酒です。

立春朝搾りとは、節分の夜から一晩中もろみを搾り続け
立春の早朝に搾りあがったばかりの生原酒を
その日の内に飲めるという鮮度抜群の純米吟醸無濾過生原酒です!

なんとも杜氏さん泣かせなお酒ですが
立春当日に酒販売店(酒屋)さんが直接蔵元へ出向き、
人手が足りない瓶詰めや出荷作業等を手伝いながら、
予約注文分のお酒を蔵元から直接仕入れているのです。
バラ売りはせずに1箱12本入。
予約数が多くても蔵元の最大出荷数には限りがある為、
地域によっては好みの銘柄で飲めないなんて事も。

そして、蔵元、酒販売店総出の出荷作業の合間に
地元神社の神主によるお祓いが行われます。
立春朝搾りに関係した全ての皆様の
無病息災、家内安全、商売繁盛を祈願した日本酒。
新しい年(立春の日)に相応しい縁起感抜群な日本酒なのです!

私が選んだ銘柄開華の蔵元は第一酒造株式会社さん。
栃木県佐野市にあり創業1673年(延宝元年)と歴史があり、
栃木県内最古の酒蔵です。
開華という名からも縁起の良さを感じますが、
開華の由来は明治時代の文明開化で当初は開花だったとか。
戦後、花開くから、華やかに開くという意味を込めて
開華へと変更されました。

開華が美味しいお米と美味しい水とで作られた
情熱の一品である事は言うまでもありませんが、
1年間を通じて16度前後の水温を保った
古生層石灰岩の隙間から湧き出す豊かな水がありまして・・・

Izuruhara_Benten_Pond.jpg
画像は出流原弁天池

どこにあるのか?と言えば、出流原弁天池!
その隣にあるのは磯山弁財天。七福神の弁財天です。
弁財天は、水の神として川や池の近くに祀られる事の多い
神様なのは説明するまでもないですよね。
出流原弁天池の水は日本名水百選に選ばれていて
開華はこの弁天池の湧水と秋山川の伏流水を使って
造られています。

開華1本.jpg
画像は開華

立春朝絞りの開華は、
地元にある赤城神社宮司が蔵に直接訪問して
造る人、届ける人、飲む人「立春朝絞り」に関する
全ての人の「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」の
祈祷が行われた縁起酒ではありますが、
原料からして弁天池の湧水がブレンドされているので、
たいへん縁起の良いお酒と言えます。

大吉.jpg
画像は開華ラベル裏

なんとラベルの裏には大吉の文字が!
縁起酒として芸が細かいですね^^

第一酒造株式会社さんでは、
開華の立春朝搾りの他に
大晦日しぼりという商標登録されたお酒があり、
この手の事を一番初めに試みた酒蔵さんです!
まさに開華(開花)の名に相応しい試みと言えます。

無濾過生原酒に胸弾ませながら
自宅で祀っている神々様へ奉納させて頂いた事は
言うまでもありません!

気になるお味の方ですが、無濾過生原酒なので
加熱処理の日本酒と比べると大きく味が異なります。
まず、香りからしてハッキリと違いがわかります。
そして、原料は米なのになぜかフルーティです!

錫製チロリを氷水に付けてガンガンに冷やして
竹のぐい吞みに注いで飲む至福の1杯♪

節分の夜から夜通しでもろみを搾り続け
立春の早朝に搾りあがったばかりの生原酒を
神職が神々様に心を込めて祈祷を行い
当日から飲める鮮度抜群の無濾過生原酒!
某有名なフレーズを用いると・・・
酵母菌が生きたまま腸に届く生の日本酒。
知れば知る程にこれ以上無い贅沢な日本酒の1つだと言えます。
縁起酒とは斯くあるものなのです♪

平成10年に初まって平成30年には全国43の酒蔵で
立春朝絞りを行う程に成長した立春の一大行事。
興味のある方は日本名門酒会のHPから
地元の販売店を探して予約してみて下さいね^^

酒屋さんでお酒を買う事が少なくなったご時世に
酒屋さんでしか買えない要予約な縁起感抜群の日本酒。
そこから繋がる地域の和、人の和!
立春朝搾りは人と人とを紡ぐ神の酒なのかもしれませんね^^

タグ:神事 正月
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新しき年の始まり [神事]

新芽.jpg
画像は新芽

新春の候、皆様ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
本日、2月4日は旧正月(本来のお正月)で立春です。
寒い冬が明け、新芽が出る季節の到来です♪
ゆえに、(冬が)明けまして、お芽出度うございます!

新年を迎え、初詣として八百万の神々様にご挨拶をされるなら、
遠くの立派な神社よりも、地元にある近くの神社(氏神)が大事です!
そして恵方詣りをされるのも和を感じて良いですね♪
2018年の恵方・・・つまり、吉方位は南南東。
自宅から南南東の方位にある神社へ参拝する事を恵方参りと呼び、
普段参拝しない神社(神様)へ足を運ぶ良い機会かもしれませんね^^
この方位の決め方は陰陽五行説を用いていますが、
風水や易で使われている理論といった方がわかりやすいですね。

年賀状でよく目にする【新春の候】、【迎春】は
春の訪れを意味しているわけで
新暦の1月は暦の上でも冬であって春ではありません。
暦の上では立春を迎えて、はじめて春になるわけです♪
ただ、春を迎えても肌寒い日が続く事に変わりないですが(笑)
関連記事:神様をお迎えする本当の月は・・・

節分の豆撒きをなぜ、2月始めに行うのか?
あまり気にする事が無いと思いますが
立春がお正月で、その前日が大晦日の節分。
【節分祭】として大晦日の日に神社境内にて
今年1年、良い年で過ごせるように
「福は内、鬼は外!」と神事が行われているのです^^
節分で豆撒きを行い、邪気を祓った状態で
新しい年を迎えるという流れになります。

そこで、各地域毎に銘柄が違うものの
新しい年の始まりに相応しい縁起感抜群な日本酒を
簡単にご紹介したいと思います。

年に1度だけの特別な日本酒ってご存知でしょうか?
販売元は日本名門酒会加盟の酒販売店に限定され
しかも、地域によって銘柄が変わる地域限定酒!
もちろん、火入れをしない生の原酒・・・
殺菌する必要の無い本物の日本酒、立春朝搾り!

私は第一酒造(株)の【開華】を毎年予約しているのですが、
この開華は、日本名門酒会と企画して平成10年に立春朝絞りをスタート・・・
立春に合わせて夜通し作業を試みた最初の銘柄で立春朝絞りの原点です。

栃木の観光スポットの1つに出流原弁天池があり、
出流原弁天池の山上に鎮座するのは【磯山弁財天】。
言わずと知れた弁天様が祀られた神社で、
開華には名水百撰に選ばれた
【出流原弁天池湧水】を用いて作られた銘酒です。

七福神の1柱であり、才や財、水の神様として宗像大社の市杵嶋姫命、
伏見稲荷神社の宇迦之御魂神(宇賀弁才天)が弁天様として有名ですね。

歴史ある日本酒の銘柄1つをこうやって深く掘り下げていくと、
様々なドラマがあり、知的好奇心をくすぐられます。  
因みに開華の語源は【文明開化】から来ているので、
新しい年の始まりに相応しい銘柄の1つとして
幸先の良い未来を切り開きたいものです^^

あぁ、そうそう立春朝搾りの開華については
記事が長くなり過ぎてしまうので、
日を改めて別記事として綴る事にしたいと思います。
どうぞ、お楽しみに!  

タグ:立春 正月 神様
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神様をお迎えする本当の月は・・・ [神事]

早いもので、もうすぐ節分ですね^^
かむやしろも順調に更新されて
少しずつ記事が増えています♪

So-netブログのかむやしろは2018年1月1日に初記事投稿なので
お正月ネタを中心に扱ってきましたが、
「遅いよ!  もっと早く、このブログがあれば準備したのに!」
と思ってくれる読者の皆様、お待たせしました♪

【神様をお迎えする本当の月は・・・】というタイトルを見て
ピンと来た方は鋭いです!

1月のお正月に歳神様をお迎えするのだから
神様をお迎えする月は1月でしょ?

実は、ほんの少し違うんです。

古来、我が国は自然暦といって季節や自然、
動植物の移り変わりといった自然観測によって
暦を見ていました。
日本らしい風情ある言葉を用いれば
花鳥風月による自然暦となります。

しかし、この自然暦は非常に曖昧というか・・・
そこで、中国で運用されていた太陰太陽暦を導入します。
この太陰太陽暦は明治の時代まで長く
国の暦として使われていく事になります。
※時代時代で太陰太陽暦のバージョンは上がっています。

と・こ・ろ・が!

明治5年11月9日、突然、マジですか?(汗)
という電撃的な改暦ノ布告がなされます。

改暦の布告.png
画像は改暦ノ布告

「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」
(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)
「太陰太陽暦から太陽暦に暦を改めるので
 明治6年 1月1日は、
 明治5年12月3日からにします」と。
明治5年11月9日に布告して、
明治6年のお正月は12月3日からにしますと・・・。
 
暦を改める事で、
財政難だった当時の政府は公務員1ヶ月分の給与削減という
経費削減ができる訳ですが、カレンダー屋さんとか印刷屋さんは、
堪ったもんじゃないですよね!

大混乱の中、予定通りに明治5年12月2日をもって、
今まで使われていた太陰太陽暦(天保暦)は旧暦となります。
※明治改暦は簡略化しています。

え? どーゆー事?と目を丸くされた方も
いるかもしれませんが
ここからが、今回のメインテーマです。

太陰太陽暦でのお正月は春の始まり・・・
つまり「立春」を指しています。
春の訪れは生命の訪れであり、新しい息吹です。

そもそもお正月の年頭の挨拶を見れば・・・
「迎春」

年賀状の挨拶を見ても・・・
「新春の侯・・・」から始まり

それを喜ぶ
「芽出度い(めでたい)」は
「(春を迎え)芽が出る」という意味があります。

また新年の挨拶である
「明けましておめでとうございます」は、
年が明け歳神様を迎えるお祝いの言葉です。
神様への感謝の言葉を人々の間で交わすことにより、
歳神様を迎えた事を喜びあっているのです。

おめでとうの語源は
「愛で甚し(めでいたし)」です。
「愛でる」は、愛する 、大事にする、喜ぶといった意味があり、
「甚(いた)し」は、甚だしいという意味です。
※”芽出度い”と”愛で甚し”は違いますので注意!

というわけで本来のお正月は
旧暦の1月、つまり2月です。

北斎節分.jpg
画像は北斎の節分

そして、立春と言えば節分の豆まき!
神社で豆撒きしているので
神事である事は言うまでもありませんが、
本来の大晦日行事(旧暦)にあたり
「鬼は外、福は内」の言葉からも想像できる通り
神様を迎え入れる準備だったのです!

そして、この伝統行事・・・
実は風水理論で説明できてしまうのですが
豆撒きと風水に関する記事は
難しいので取り扱わないと思います。
気になる方は風水師の先生が解説している事もあるので
調べて見て下さいね^^

さて、話を元に戻して・・・

本来のお正月は旧正月・・・
つまり立春以降となるのです。
因みに2024年までは2月3日が節分(大晦日)です。

そういうわけで、かむやしろは”1ヶ月も前”から
お正月記事でお正月の大切さを綴ってきたのです♪

そうは言ってもお正月シーズンは過ぎているので
門松などのお正月アイテムは手に入らないと思います。
竹やぶを持っている友人・知人が居て、
竹を分けて貰えればその中に松を入れて
簡易門松の完成ですが・・・

私は1月に入ってからお花屋さんで残っていた松を買って
バケツ?に水を入れて松を2月まで保管しています。
1月は気温が低いので、しっかり水をやって適度に
ハサミを入れて水を吸わせると松は持ってくれます。
※環境によります。

有り難いことに本物の竹を入手する事も可能で
お手製門松を作る事も出来なくはないけれど
青磁竹型の榊立に松を入れて玄関先に置いておくだけでも
十分だと思ってたりします(笑)

2月に門松を置いておくと普段と少し感じが異なるんですよ。
世間的には季節外れの門松ですが、
自宅へと歩いて帰宅していると
”この気、この感じ”は何だろう?
と辿っていくと我が家玄関に繋がっていたり・・・。

鏡餅は真空パックの為、通常は2年間の消費期限ですが
翌年の4月に明記しているのが通例なので日持ちは十分。
さすがに”こだわりの七草”はムリですが、
1月と2月の年に2回の鏡開きは出来ますよね♪
今年みたいに2月3日が節分ばら2月4日がお正月。
その11日後の2月14日が鏡開きという感じでしょうか^^
関連記事:七草の神事

本来の鏡開きは旧暦1月20日に行われていましたが、
徳川家光公の命日が旧暦4月20日の為、旧暦1月20日から改めた経緯があります。
つまり、人の都合で変化しているので深く考えなくてOKという事です。
過去記事:鏡開きの神事

え?  やっぱり、投稿記事が遅くて準備できないって?(笑)
お正月は来年もあるので、
来年、このブログを見て準備してみて下さいませ^^
その為に、このブログは存在しているのですから!

因みに私は新暦の1月1日はお正月として
普通に正月用の祝詞を神棚に奏上していたり
初詣で神社に参拝したり、
お正月飾りを飾ってお祝いしたりして
立春以降(本当のお正月)に向けてのリハーサル的な感じで
お祝いして、楽しんだりしています^^

睦月・・・睦び月・・・どんど晴れ♪

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