怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)② [神様について]
関連記事:怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)①
事実無根の罪を着せられて、
太宰府へと左遷させられただけでなく、
子供達までもが罪に問われて流刑となり、
わびしい生活を余儀なくされた道真様は
59歳でこの世を後にします。
そして、その翌年より様々な怪奇現象が起きたのでした。
もちろん、証拠はなく、誰も証明出来ませんが・・・。
道真様の恩師である比叡山延暦寺第十三代座主、
法性坊尊意僧正の前に現れ
「無実の罪を晴らすべくこれより復讐を行うが、
わしの恨みを祓わんと指名された際には、
例え天皇からの命令であっても、
私を阻止するような事はしないで欲しい。」
しかし、尊意は
「天皇から2度3度と繰り返し要請があれば、
断る事はできない」と断ると
道真様は口に含んだザクロを戸に向けて吹きかけると
戸は炎に包まれました。
すかさず、尊意は印を結んで鎮火させますが、
その時には既に道真様の姿は消えていたとか。
この後、道真様は数十年に渡って
その名を轟かせていくのです。
906年、
道真様を陥れた中納言藤原定国が急死。
醍醐天皇に「天下之世務以非為理」と上申した
最初のきっかけ作りを行った人です。
908年、
道真様の左遷を知った宇多天皇が醍醐天皇へ直訴に駆けつけた際、
行く手を阻んで面会させなかった藤原菅根が雷の直撃により即死。
909年、
道真様を左遷に追いやった藤原時平死亡。
当時有名な天台宗の僧、浄蔵に加持祈祷をさせるも、
時平の耳から出てきた道真様の化身が現れて
祈祷を中止し、その後、ほどなくして時平死亡。
913年、
時平派だった源光が狩りの最中に底なし沼に
馬ごと転落して行方不明。
道真様を陥れて左遷後に右大臣になった方で遺体は上がらず。
923年、
醍醐天皇の皇子で皇太子の保明親王が21歳の若さで急死。
時平の甥にあたる方です。
925年、
保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王が5歳で死亡。
母親は時平の娘、時平さんの孫にあたる方。
さすがに異常事態だと認識した醍醐天皇や藤原一族は
道真様を太宰府長官より右大臣に戻し、正二位を追贈。
左遷詔書(天皇から左遷命令を伝える公文書)も焼却。
祟りを畏れて役人の他に僧侶もその場に居たのですが、
焼却する火が周囲に燃え移り、役人、僧侶共々焼死。
国内では干魃や疫病が蔓延し、遂に歴史的事件へと。
画像は北野天神縁起絵巻の清涼殿落雷事件
930年6月、干ばつ・疫病対策会議の最中、
清涼殿(平安中期の天皇御殿)に落雷の直撃。
藤原清貫は清涼殿に落ちた雷の直撃を受けて即死。
清貴は時平政権に参加して道真様の追放に加担した方。
平希世は顔に直撃し、美努忠包が髪を、紀蔭連が腹を、
安曇宗仁が膝を焼かれて死亡。
この歴史的事件から雷神=道真様というイメージが定着します。
今までの出来事全てが道真様によるものであると信じられ
当時の人は恐れ慄きます。 (清涼殿落雷事件)
面白いエピソードとしては・・・
源 公忠が死んだ3日後に生き返ったというお話があります。
醍醐天皇はこの源 公忠を呼び、あの世(地獄)での話を尋ねると
「醍醐天皇はもうすぐここ(地獄)にやって来る・・・
時平の讒言を聞き入れ、無実の賢人を左遷した事が1番重たい」と。
これを聞いた醍醐天皇は気が気じゃなかった事と察しますが、
天皇の位をわずか8歳の寛明親王に譲位し、
朱雀天皇が即位します。
そして、譲位1週間後に醍醐天皇は同年9月に衰弱して崩御。
936年、
藤原時平の長男、藤原保忠は物の怪に取り憑かれ
全力で当時の高僧達に祈祷をさせるも狂死。
時平の娘、藤原褒子死亡。
943年、
時平の三男 藤原 敦忠死亡。
当時、道真様を陥れに加担した関係者の方々は
こうして次々と亡くなられていったのでした。
もちろん、証拠は無いので証明のしようがありません。
でも、単なる偶然の出来事と簡単に片付ける事が出来ないような
ピンポイントで関係者が次々と消えていく事実・・・。
そして、道真様は他界された後も出世を続けられていくのでした。
生前の901年に公卿としての最高位である従二位から
993年に道真様に正一位左大臣、太政大臣追贈。
贈正二位を経て贈正一位まで進み、官職も右大臣から太政大臣へ。
因みに道真様を陥れた張本人である藤原時平は左大臣、正二位。
この後の歴史はというと・・・
金メダリストの羽生結弦選手でも有名なSEIMEI。
そうです、あの有名な陰陽師、安倍晴明が登場して
その後は学校で習った平将門へと歴史は進みます。
実は平将門の時代に道真様が再び登場していたとか・・・。
さて、このままだと道真様の印象があまりに・・・って事で
続きは怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)③へ続きます。
事実無根の罪を着せられて、
太宰府へと左遷させられただけでなく、
子供達までもが罪に問われて流刑となり、
わびしい生活を余儀なくされた道真様は
59歳でこの世を後にします。
そして、その翌年より様々な怪奇現象が起きたのでした。
もちろん、証拠はなく、誰も証明出来ませんが・・・。
道真様の恩師である比叡山延暦寺第十三代座主、
法性坊尊意僧正の前に現れ
「無実の罪を晴らすべくこれより復讐を行うが、
わしの恨みを祓わんと指名された際には、
例え天皇からの命令であっても、
私を阻止するような事はしないで欲しい。」
しかし、尊意は
「天皇から2度3度と繰り返し要請があれば、
断る事はできない」と断ると
道真様は口に含んだザクロを戸に向けて吹きかけると
戸は炎に包まれました。
すかさず、尊意は印を結んで鎮火させますが、
その時には既に道真様の姿は消えていたとか。
この後、道真様は数十年に渡って
その名を轟かせていくのです。
906年、
道真様を陥れた中納言藤原定国が急死。
醍醐天皇に「天下之世務以非為理」と上申した
最初のきっかけ作りを行った人です。
908年、
道真様の左遷を知った宇多天皇が醍醐天皇へ直訴に駆けつけた際、
行く手を阻んで面会させなかった藤原菅根が雷の直撃により即死。
909年、
道真様を左遷に追いやった藤原時平死亡。
当時有名な天台宗の僧、浄蔵に加持祈祷をさせるも、
時平の耳から出てきた道真様の化身が現れて
祈祷を中止し、その後、ほどなくして時平死亡。
913年、
時平派だった源光が狩りの最中に底なし沼に
馬ごと転落して行方不明。
道真様を陥れて左遷後に右大臣になった方で遺体は上がらず。
923年、
醍醐天皇の皇子で皇太子の保明親王が21歳の若さで急死。
時平の甥にあたる方です。
925年、
保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王が5歳で死亡。
母親は時平の娘、時平さんの孫にあたる方。
さすがに異常事態だと認識した醍醐天皇や藤原一族は
道真様を太宰府長官より右大臣に戻し、正二位を追贈。
左遷詔書(天皇から左遷命令を伝える公文書)も焼却。
祟りを畏れて役人の他に僧侶もその場に居たのですが、
焼却する火が周囲に燃え移り、役人、僧侶共々焼死。
国内では干魃や疫病が蔓延し、遂に歴史的事件へと。
画像は北野天神縁起絵巻の清涼殿落雷事件
930年6月、干ばつ・疫病対策会議の最中、
清涼殿(平安中期の天皇御殿)に落雷の直撃。
藤原清貫は清涼殿に落ちた雷の直撃を受けて即死。
清貴は時平政権に参加して道真様の追放に加担した方。
平希世は顔に直撃し、美努忠包が髪を、紀蔭連が腹を、
安曇宗仁が膝を焼かれて死亡。
この歴史的事件から雷神=道真様というイメージが定着します。
今までの出来事全てが道真様によるものであると信じられ
当時の人は恐れ慄きます。 (清涼殿落雷事件)
面白いエピソードとしては・・・
源 公忠が死んだ3日後に生き返ったというお話があります。
醍醐天皇はこの源 公忠を呼び、あの世(地獄)での話を尋ねると
「醍醐天皇はもうすぐここ(地獄)にやって来る・・・
時平の讒言を聞き入れ、無実の賢人を左遷した事が1番重たい」と。
これを聞いた醍醐天皇は気が気じゃなかった事と察しますが、
天皇の位をわずか8歳の寛明親王に譲位し、
朱雀天皇が即位します。
そして、譲位1週間後に醍醐天皇は同年9月に衰弱して崩御。
936年、
藤原時平の長男、藤原保忠は物の怪に取り憑かれ
全力で当時の高僧達に祈祷をさせるも狂死。
時平の娘、藤原褒子死亡。
943年、
時平の三男 藤原 敦忠死亡。
当時、道真様を陥れに加担した関係者の方々は
こうして次々と亡くなられていったのでした。
もちろん、証拠は無いので証明のしようがありません。
でも、単なる偶然の出来事と簡単に片付ける事が出来ないような
ピンポイントで関係者が次々と消えていく事実・・・。
そして、道真様は他界された後も出世を続けられていくのでした。
生前の901年に公卿としての最高位である従二位から
993年に道真様に正一位左大臣、太政大臣追贈。
贈正二位を経て贈正一位まで進み、官職も右大臣から太政大臣へ。
因みに道真様を陥れた張本人である藤原時平は左大臣、正二位。
この後の歴史はというと・・・
金メダリストの羽生結弦選手でも有名なSEIMEI。
そうです、あの有名な陰陽師、安倍晴明が登場して
その後は学校で習った平将門へと歴史は進みます。
実は平将門の時代に道真様が再び登場していたとか・・・。
さて、このままだと道真様の印象があまりに・・・って事で
続きは怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)③へ続きます。
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