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怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)① [神様について]

よく【日本の神様は祟る】と言われますが、
はてさて、実際にはどうでしょう?って事で記事を綴ります。

【神】という漢字には【示】が含まれているわけですが
この【示】が使われている漢字を見ていくと
神様に関係する事が実に多いのです。
神、祀、祇、社、祈、祉、祠、祝、祖、祚、祕、祓、禍・・・etc
関連記事:神という漢字を読み解く!
    :雷は神様!

【祟る】の漢字は【出】と【示】とに分解でき
単純に【示】が【出る】という解釈で
本来、【神の顕現】を表した文字です。

歴史的な背景を見ていくと流行病、飢饉、天災等の災いが起きると
それは神の顕現であるとして認識し、畏れ鎮めて、祀り上げるのだとか。
実際の所はというと確認のしようがありません。
だって、証拠は無く誰も証明できないのだから!(笑)

しかし、有名なエピソードとして記事を綴りたいと思います。
日本三大怨霊が1人として畏れられ、私が大好きな神様の1柱のお話です。

【学問の神】【至誠の神】【書道の神】として
皆から崇敬され、親しまれている菅原道真様。
その名が表す通り、【真(マコト)の道】を歩まれた御仁です。
そして、学問の神と称される天賦の才は伊達ではありません!

『美しや 紅の色なる梅の花 阿呼が顔にもつけたくぞある』
この和歌、道真様が5歳の時に詠まれたのだとか・・・
(阿呼とは道真様の幼少の頃の名です。)

『月燿如晴雪  月の燿かがやくは晴れたる雪の如し
 梅花似照星  梅花は照れる星に似たり
 可憐金鏡転  憐ぶべし 金鏡転めぐり
 庭上玉房馨  庭上に玉房の馨かをれるを』
道真様が11歳の頃に詠まれた漢詩です。

道真様が26歳の時に官吏登用試験の方略試1発合格。
この方略試は道真様の年代で約220年の間に65人しか
合格者が居ないという最難関国家試験です。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用され、
898年の秋、宇多天皇(上皇)一行と手向山八幡宮へ参拝されます。
その時に神様へのお供え物を忘れた事に気づき、
一行は大慌てとなりましたが、道真様は一句詠まれます。

『このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに』
 
 「今度の旅は急いで発ちましたので、
  捧げるぬさを用意することも出来ませんでした。
  しかし、この手向山の美しい紅葉をぬさとして捧げますので、
  どうかお心のままにお受け取りください。」

百人一首でも有名な和歌の1つですが、
さぞかし、その場を和ませて、一行を安堵させた名歌だった事でしょう。

醍醐天皇時代になり899年道真様は55歳の若さで右大臣に昇進します。
右大臣というのは左大臣に次ぐ官職で、
天皇 → 左大臣 → 右大臣という官位順です。
当時は、藤原家の権力が凄まじい時代でしたが、
その藤原氏と天皇の2人しか道真様の上に居ないのです!
家柄という後ろ盾のない道真様にとって右大臣は
人としての最高位といっても過言ではないでしょう。

『臣は将相の貴種にあらず、宗室の清流にもあらず、
 儒林より出でし身の、昨日までの官位すら過分至極なるに、
 ましてや大臣の位など思ひもよらず。
 斯くしては人心必ず従容せず、鬼瞰(キカン)必ず睚眦(ガイサイ)を加へん。
 伏して願はくば、陛下高く聖鑑を廻らして、
 早く官を罷めしめ、以て衆庶の望みを失ひ給ふことなからんことを。』
                           菅家後草より

道真様は右大臣への欲は無く、右大臣になる前の官位でさえ分不相応として
右大臣を断り続けた為、遂には醍醐天皇が怒り出してしまいます。
「汝は朕を捨てんとするか」
こうして、道真様は右大臣となり左遷へと至るのでした。

2年後の道真様57歳の時、公卿としての最高位となる従二位の官位を
授けられるになりました。  本当にとてもスゴイ御仁なのです。

ただ、従二位の位を授かった20日後には・・・
儒家であった道真様は清廉潔白な政治を心掛けてきたが故に
私服を肥やしていた貴族達の反感も強く、
その類稀なる天賦の才と出世の早さも相まって
周囲からは妬みを買っていたのでした。
そして、901年、左大臣の”藤原時平達”が醍醐天皇に
「天下之世務以非為理」と奏上した虚偽によって貶められ
太宰府へと左遷させられただけでなく、
子供達まで罪に問われ流刑となります。(昌泰の変)

道真様が詠まれた有名な和歌として
『東風(こち)吹かば 思い起こせよ 梅の花 主無しとて 春を忘るな』

「主人(こと、私)がいなくなっても、春が来るたび忘れること無く、
 梅の木よ、芳しい花を咲かせておくれ。」

この和歌は左遷が決まった後に道真様が詠まれました。
そして、この歌を聞いた梅は道真様を追いかけてなんと大宰府に!
(飛梅伝説)

飛梅看板.jpg

飛梅.jpg
画像は太宰府天満宮の飛梅

因みに菅原道真様のご神紋は梅紋で
太宰府天満宮のご神木は樹齢1000年を超える白梅。
そして太宰府天満宮のお神酒は日本酒ではなく梅酒です。
今までの歌を見て分かる通り、
道真様は梅をこよなく愛しておられました。

左遷後の大宰府長官とは名ばかりで、
実際には雑草が生い茂り、雨漏りする官舎で、
衣食もままならないわびしい生活の中、
近くの方が道真様を元気つけようと
梅の枝に餅を差して窓から差し入れを行っていました。
これが有名な「梅ヶ餅」のエピソードです。

梅ケ餅.jpg
画像は梅ヶ餅


天拝山御神詠.jpg
画像は天拝山社に奉納された御神詠

『去年今夜侍清涼 (去年の今夜、清涼に侍す)
 秋思詩篇獨断腸 (秋思の詩篇、独り断腸)
 恩賜御衣今在此 (恩賜の御衣、今此処に在り)
 捧持毎日拜餘香 (捧持して毎日余香を拝す)』

「去年の今夜は清涼殿にて、断腸の想いで作った秋思の歌。
 その褒美として天皇より頂いた衣は今もここに在って
 毎日、捧げ持って香を炊いている」

道真様は太宰府政庁から見える天拝山へ幾度となく登山され、
天に対して無実を訴えられました。

太宰府政庁跡.jpg
太宰府政庁からの風景.jpg
画像は大宰府政庁跡

登山の前には紫藤の瀧で身を清め、
天拝山の頂上にある岩の上に7日もの間、
爪先立ちをしながら天に無罪を訴えられたのだとか。
この逸話は歌舞伎の演目にもなっています。
(菅原伝授手習鏡(すがわらでんじゅてならいかがみ))

紫藤の瀧看板.jpg
紫藤の瀧.jpg
画像は紫藤の瀧と看板

天拝山からの大宰府政庁跡.jpg
画像は天拝山からの大宰府政庁跡


道真様は845年8月1日(承和12年6月25日)に生まれ
903年3月26日(延喜3年2月25日)に薨御。
ご遺体を牛車に乗せて運んでいると、
牛が途中にあった「安楽寺」の前で伏して動かなくなります。
御神牛看板.jpg
御神牛.jpg
画像は御神牛

その場にいた菅原道真の弟子であった味酒安行は
道真様の御心によるものとして、その地に埋めて祠を建て祀ります。
これが福岡県太宰府市にある「太宰府天満宮」となります。
道真様御墓所看板.jpg
太宰府天満宮.jpg
画像は道真様の御墓所と看板

菅原道真様の生きた平安時代は遣唐使を派遣していた時代で、
道真様は最後の遣唐大使であり、
894年に遣唐使を停止した御仁でもあります。
その後、907年に唐は滅亡し遣唐使は正式に廃止となります。

さて、ここからが本番?ですが、少々長くなっている事もあり、
次の記事へと続く事にします。

関連記事:怨霊と御霊信仰(ごりょうしんこう)②

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